フィクションに関する所感

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機動戦士ガンダム 水星の魔女 視聴完了

「目一杯の祝福を君に」

怒涛の展開、衝撃の話の数々で毎週我々を翻弄としつづけた『水星の魔女』が最終回を迎えた。タイトルは前回まで『最終回』とされていたが、そのタイトルはエンドロール前に示されそれは上述した通りである。キャラクターたちにも視聴者にもつくり手にも、きっと遍くこの作品を見た全ての人達に「「目一杯の祝福を君に」。これはこの『水星の魔女』第一クールのOP主題歌『祝福』の歌詞の一節からとられていることは言うまでもないが、それが単なる借用ではなく、本編の内容にそって、きちんと意味のある言葉として使われているのが素晴らしい。そう進み続けた者たちには「目一杯の祝福を」これは『水星の魔女』という作品が作品を通して伝えたかった現実に対するエールであり祈りなのだ。内容もそれに付随する用に誰も喪われることなく、誰もが未来を、自分の人生を生きている終わり。精神がデータ化したエリクトすらもスレッタとミオリネの婚約を祝福するかの様に家族として、プロスペラと共にいる、俺はこの終わりを称賛したい。基本的に最近の傾向としてハッピーエンドが好きというのはあるが、あれだけ不穏な要素を匂わせつつ、この完膚なきまでのハッピーエンドを描いた制作陣に感謝を。だっていくらでもビターエンドに出来たはずだ。特にエリクトは死んでもおかしくなかった。でもスレッタは「欲張った」「やりたいことがたくさんある」と「お母さんもエリクトも諦めたくない」とその欲張り、欲望をこの作品は肯定してみせたのだ、そこにフィクションが持つ現実に対するエールとして素晴らしいものがあると感じる。言いたくないが現実はやりきれないことだってある、だが、だからこそフィクションは現実を後押しするものであって欲しいのだ。そう水星の魔女は現実に対して「目一杯の祝福を君に」というエールを送ったのだ。

 

 

さて結論から語ってしまったが、個々の最終的な良かった要素を結論として語ろうかなと思う。

・スレッタとミオリネ無事婚約成立。

エピローグでのスレッタの手のひらを見れば分かるが、その手には指輪がついていた。普通に考えればエピローグでスレッタの隣にいた存在ミオリネが無事結婚したことを示している。第一話ミオリネの婚約者であるグエルを決闘で倒しミオリネの婚約者となったスレッタ。最初はいわば単なる取引相手としてそこに情はなかった。しかし一緒に過ごすにつれ二人は互いを慮り、お互いがお互いのことを大切に思う相思相愛の関係性を構築するに至った。これが恋愛感情なのか、友愛の情なのか、そんなことはどうでもいいのだ。ただ隣にいるべき人物として家族として、スレッタはミオリネを選び、ミオリネはスレッタを選んだ、これはこのアニメが最初の時点でいわゆる同性愛(LGBT+)を肯定して描いてみせたことに対する、誠意ある描写と言えるのではないだろうか。多様性が叫ばれる昨今、ガンダムというビッグタイトルでこれを描ききった『水星の魔女』のこの描写には極めて意味があると自分は思う。

 

・プロスペラ救済

プロスペラはいわばこの物語であるラスボス的黒幕である。彼女を倒さなければこの話は終われない、はずだった……。だが思い返せば主人公スレッタは言い続けていたのだ。「お母さんを悪い魔法使いにしたくない」とスレッタは決して母親であるプロスペラを自身をエリクトの為に利用していたと知っても個人的憎悪を抱いていなかった。故にスレッタは母を思っていた。スレッタの親としては罰せられる罪深き存在だと俺は思うのだが、当のスレッタ自身にはそういう意識はなかったのだ。そしてプロスペラ、彼女自身の心情もここでようやく語られる。この構成は見事なのだが、要は彼女はヴァナディース事変で、全てを喪い、それでも残った希望、エリクトの為だけ思って、ここまで生きてきた存在、母だったのだ。だからこそ引き返せないし、後戻りできな道を歩み続けた、だが根底にあったのは愛なのである。このプロスペラの悲哀を最終回で描写してみせた構成が見事。彼女は「復讐ではなく未来を選んだ」とスレッタは語った。そうそれが例え血塗られた道であるとしても、彼女は彼女なりに未来を見ていたのである。そのプロスペラに与えられたのが、敢えてこう言うが断罪ではなく救済であったのは評価したい。

 

・エラン四号、ソフィ、ノレア、精神体として存在を確認

エラン四号は正直出ただけで反則なんだけど、これが物語で絵空事であるのなら、その反則もきっと許される。死の先にある世界。数多の宗教が主張するそれだが、それが『水星の魔女』というSFフィクション作品では存在するのだ。いや俺は本来こういう要素は好きじゃない。だが水星の魔女に関しては別だ。水星の魔女が現実の先にある未来を描いたものならば、その未来を信じれば、人間の精神が肉体という枷を超えて、存在せしめるということが可能であるという可能性を描いたっていいと思えたのだ。いやユニコーンとかには否定的なんだけど、不思議だね、見方が作品の描き方で180℃変わってしまう。

 

・スレッタ、ガンダムの力でコロニーレーザー(じゃないと思うけど、どういうものか分からんのでこう言わせてくれ)阻止。

こんなこと人間には出来はしない。人間のスペックでは出来はしない奇跡なのだが、

フィクションだから出来る、許される越権行為なのだと自分は考える。問題はこういう奇跡にどれだけ整合性やらなんやらを担保して正当性を持たせるかなのだが、そんなことを言っておきながら、それはもはやどうでも良いことな気がする。ご都合主義、都合のいい展開といっても良いと思うのだが、フィクションだからこそ、現実を覆す、その力を信じたって良いじゃないかと、今は思える。いや俺は本来こういうのには否定的なんだけどね。だけどそうだ、ここまでの旅路、歩いてきた道に対する『祝福』がきっとあって欲しいと願ってしまい、それが実現したこと、絵空事でも、フィクションの中であっても、物語の中だからこそ、これが成ったことが嬉しいのだ。これは単純に視聴者の願望でそれが成立したことが嬉しいという単純な理屈である。故に細かい理屈じゃないんだ、それだけこのキャラクターたちを愛してしまったということなのだろうだから。